どうぶつの森のキャラクターになる話

お久しぶりです。

気付いたらブログ書かなくなってたけど理由とかなくて、きっとただの飽き性なんだけど、他の人がブログというか記事というか書いてるのみたらなんだか書きたくなっちゃった。

ブログ書いてた時って、実はずっとネタを探してたんだよね。周りをよく見てたというか。結局書いてると全部自分の話になっちゃうんだけど。だから文章書きたかっただけで、今ネタがないんだー。

 

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質問箱で今までの人生どんな感じでしたか?みたいなの貰って答えた。自分の人生に対して、どうぶつの森をプレイしてるみたいな感覚ある。これは高校の時からずっと言っているが、間違いなく自己防衛の類いのものだろう。この感覚が分からない人には一生分からないだろうし、まあもちろん分かる必要もない。これは感情がない訳ではなくて、感情も含めて現実味がないという感覚だ。極度に感度を下げてるみたいな。大森靖子の死神という曲は「履歴書は全部嘘でした。美容室でも嘘を名乗りました。本当の僕じゃないのなら軽蔑されても耐えられる」から始まる。履歴書でも美容室でも普通に名乗るし、軽蔑されていると思ったことがある訳ではない私がめちゃくちゃ共感した歌詞。世の中には大森靖子を聴くべき人間と聴く必要のない人間がいると本気で思ってるが、私は本当にいつも救われている。

ところでどうぶつの森のキャラクターを操る私の幸せとはなにか。わたしにはそれがずっと分からなかった。どうぶつの森のキャラクターを操る私の価値とは何か。そんなもんだよなと思った。

 

上記のも一例だけど、私の価値観とか感覚とかが世間の固定概念で定まった「これ」とずれているというのは知っていて、みんなが「これ」を正しいと思ってるって分かるから、ずっと私のも「これ」ですよってフリしてきた。これからもそうするだろう。でも根本は変わらないじゃん。それごと愛せる日がいつか来ると良い。

 

ただ、最近どうぶつの森のキャラクター本人になれる瞬間が結構あって。逆にどうしたらいいか分からなくてすぐバグる。

 

「私の中にかなり真逆の考え方を持った人格(側面)が存在して、片方はめちゃくちゃ"男らしい"し、片方はめちゃくちゃ"女らしい"。どっちもとなんて付き合っていられないよな。」「私は自分の"男らしい"考え方が結構好きなので考え方ベースはそっちなんだけど、感情ベースはかなり"女らしい"な」って、私のツイッターからの引用だけど。本当にこれで、普段冷静に強気の考え方できるのに、感情が入ると弱い。めちゃくちゃ脆い。母親に「メンタル鍛えるなにかしたら?」と本気で言われた。なにかってなに?

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いつもだけどブログ書こうとしたらツイッターまとめみたいになっちゃうよな。思ったことは常にリアルタイムで呟いているので。

 

キッチンのバイトで鉄板触って火傷した傷があまりにもずっと赤いからもう一生消えないんじゃないかと思ったけど、最近やっとかさぶたもなくなって落ち着いてきて安心した。黒く色が残るだろうから完全に消えるのに1年くらいはかかるだろう。本当に消えるかな。この傷がもし消えなかったとしても、私は幸せに生きることができるだろうか。

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いま本当に文章考える気になれないからすごく適当な文章で失礼。

 

知らない土地で知らない人たちと知らないことをする、今日は4日目。非常に疲れて、色々重なってイライラしていたけれど、なんだか今日は充実感でいっぱいで心に少し余裕ができたのでブログを開いた。やっぱり受け身のことよりも何か自分で手や頭を動かして能動的に活動していた方が楽しい。ようやく第一歩という感じがする。就活の、ではなく、社会人の第一歩である。私はずっと社会人になりたかった。大人になりたかった。

 

ハッピーな出来事は共有したい。結構自慢話を嫌う人は多いけれど、私は嫌味のない、誰かを貶めない自慢話ならいくらでも聞きたい。たまにクリーンヒットするときあるけどね。だから私も自慢話していたいし、それで褒めてくれたらさらにハッピーだし。

大変だった出来事も共有したい。大して仲良いわけじゃない人でも、だ。そっか、それは大変だったね辛かったね頑張ったねって共有出来ないなら言葉なんていらないな。過激派。

既読の文字は見飽きたし呼び出し音は聞き飽きた。共有という幸せを。

ベホイミはまだ習得してない

年の瀬だという実感が湧かず、玄関のクリスマスリースを見て違和感を覚えた。あ、もう22日ね、なるほど。あ、バイト先ももう今日からクリスマスコース?

実感が湧かないうちにずっと来てほしくなかった日が来て、2018年が終わり、平成が終わるのかと思うと悲しいような寂しいような、いやでも実感湧いてないから悲しくも寂しくもないような、へんな感じがする。

 

年末というのはやっぱりいつも慌ただしくなる。今年は就活とバイトのしすぎも相まって、訳の分からない年末を過ごす予定だ。

あれもこれもとやる事が溢れてくるときに、そのやる事自体に体力の100%を使ったら死ぬと思う。これは比喩ではなく。回復するための体力を残さなくてはいけないのだ。攻撃にすべてのMPを使ってホイミが出来ないんじゃ、死んでしまう。

これを分かってない人が多すぎる。何事もむやみに頑張れば何か成せるなんて幻想だ。ガンガンいこうぜ、じゃねーよ。

そんなわけで私はいつも回復場所を探してるんだけど、私の場合やっぱりそれは人に会うことなのだなあと実感する。会えない人ともテレビ電話越しに飲み会が出来ることを知った。コスパ最強だしそのまま寝れるしめちゃおすすめ。本当はもっと遠くにいろんなところに行きたいんだけど、やっぱりぴょんとはいかないものだな。

 

ぴょん

 

目の前で自転車に乗ってお父さんと並走してる女の子がいきなり止まった。どうした?と心配するお父さんに、女の子は疲れた!とそれだけ言って休憩してるのを見て、そうだよね疲れたら疲れた!って言って休憩したいよねと謎の共感をした。うけ。最近こんなことばっか考えてるな。

 

ぴょんぴょん

 

ところで準備をしているときって何のために準備をしているか迷走しがちじゃない?何にしても、準備してその時がきたら終わってしまうと思うと、終わるための準備をしているのかとか思ってしまう。文化祭でめちゃくちゃ時間をかけて作った装飾が、文化祭当日の夕方にはぐちゃぐちゃになってゴミ袋に入っているのを思い出す。ぐちゃぐちゃにするために作った訳じゃないのに。その文化祭は成功で、その装飾は好評だった。頭で分かっているのとそれを感情に結びつけるのは全く別の話だ。

 

フットワーク軽くして空を飛べるようになったら、海外までもぴょんって行けるかな。手始めに土曜日の朝に成績証明書のためだけに知らんキャンパスまで行っちゃうもんね。リポD飲んで今日もファイト一発。

 

「誤解する」「和解する」

 

ちょうど3年前に書いた文章です。

18歳ながらに愛について考えて考えて考えて作った思い入れの強い発表なので、ちょっと訂正したい所とかあるけど、そのまま全文投げます。聖書の授業です。

 

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テーマは「誤解する」「和解する」。ちょっっっと私には難しそうですね?笑

このテーマで何を話そうかな~と考えたとき一番最初に思いついたのは、真逆の愛についてでした。

これから話すことは、私がずっと前から考えてきたことで、言ってしまえば私が何かを考える時の根底にある考えとも言えるかもしれません。それをみんなの前で話すのはなんだか怖いような気もしますが、いろんな意味を込めて話したいと思います。最終的に少しでもテーマに繋がればラッキーです。

 

 

みなさんは愛、と聞いて何を思い浮かべますか?誰を、思い浮かべますか??

少し前に、文脈もまぁなくはなかったのですが、恋と愛の違いってなんだと思う?と聞かれました。私は内心、いや全然違うものでしょ…と思いつつ、言語化することが出来なくて、ちょっと待ってと伝えて考えました。

結局、恋はときめいたり会いたいと思ってたり、いわゆる好きっていう状態で、でもそれは状態でしかない。一方愛は、恋とは本質から違って、その人の全てを飲み込んで、その上で悪いところ嫌いなところたくさん知ってるけどなんだかんだその人に落ち着くし、何かによる訳でもなく何があってもその人のそばに居続けること

まぁそんな感じの結論になりました。


これを考えている時、私の頭の中には一つの言葉がありました。好きなアーティストさんの言葉なんですけど、「いつだって最後に残る味方は、自分の半径3メートル以内にあるものだけ。それは親でも友達でも恋人でもいい。理論で善悪を測ろうとしたところで意味なんてない。どれだけ理論的に破綻していようと、「それでも味方だよ」と言ってくれる人だけが自分を生かすんだよ。」という言葉です。

私と仲良い人はもうその話聞いたよ笑、って感じかもしれませんね。それくらい好きな言葉です。

一応これについて幾つかの批判もあったので言っておくと、ここで言う味方というのは存在の肯定であって、例えば何か間違ったことを言ったときに間違っていると言わない、ということではなくて、それは間違っているけど間違っているからといってあなたのことは嫌いになるわけではない、それでも味方でいるよ!みたいな意味だと思います。

これを読んだ時、この文章の中には一度も「愛」という言葉は出てこないのに、あ、これを愛って言うんだなぁって思いました。私が今まで、こう、言葉にできなかった考えを言葉にしてくれた感じでした。

みなさんに、愛する人はいますか?

 

聖書では神は私たちを愛してくださる、と各箇所が語っています。私たちは神に愛されているらしいです。半径3メートル以内に置いてくださったんですね。

 

私が愛と聞いて切に思うところがあるのは、自己愛についてです。

J3くらいのころ、私は自分のことがとても嫌いでした。最近この聖書の授業や礼拝で他人と比較しないこと、タレントについての話などをよく聞く気がしますが、当時私は何も持っていない自分に劣等感を感じ周りがすごく輝いて見えて自分が小さく貧しく思えました。それは、今でも変わっていないのかもしれません。自分を愛するというのは私にとってはかなりの難題です。

昨日、この発表のために「自分が嫌い」というワードを打ち込み、グーグル大先生に聞いてみました。こんなに厨二病っぽいことをしたのは中2以来かもしれません笑

という冗談はさておき。そこに書いてあったものの中の一つに、自分を愛せないと人を愛せないよっていうのがありました。そんなことはないんじゃないかと思います。他人を愛することで自分を愛せるようになることだってある。一方で自分を受け入れることで、他人のことも受け入れることができるようになる、というのもまた、事実だと思います。


私たちは愛を怒りを感情を、人に伝えようとするとき、言葉で伝えようとしますね。みなさんは自分たちが言葉を操って生きているように自然と思っているかもしれません。

しかし私は、言葉って足りないよなぁと思うことがよくあります。私たちの考えていることやこの複雑な感情を人に伝えるには、言葉ではあまりに足りず、なんとか言葉にしたことが自分の本当に伝えたいこととはあまりにかけはなれていて、戸惑うこともよくあります。

それなのに私たちは感情も人との関係も、全てを言葉の型の中に押し込めようとします。微妙にニュアンスが違うかもしれないのに、人から言われた言葉に悩むことだってあります。私たちは言葉を操っているどころか、言葉に翻弄され支配されているとすら言えるかもしれません。

ピンと来ないかもしれませんが、私はこんな言葉なければいいのにと思う事もあります。

言葉にはいつでも誤解がつきまとうからです。

ここで少しテーマに戻りますが、何を伝えた方がいいのか、何を伝えない方がいいのか、なんて伝えるのがいいのか、私はいつまでたっても分かりません。


私たちはこれから生きていく中で幾度となく人と摩擦を起こし衝突していくでしょう。でも他人と自分の違いを知り、違いがあって当然だとし、他人を受け入れることで私たちは和解することが出来るのかもしれません。ときには衝突したっていいんじゃないかと思います。それも、最終的には自分のおおきな財産になっていくはずです。そして、繰り返しになりますが、そのためのまず第一歩として自分を愛してみようと、そう思います。

 

 

 

少しでもみなさんが、愛について、愛する人について、もっと言えばみんなの周りにいる全ての人について考えるきっかけになってくれたら嬉しいです。

ありがとうございました。

諸々

サークルを引退してすぐ書いた記事を投稿しないまま数週間経った。下書きには今私が伝えたい内容なんてひとつもなくて、そっと消した。自分の企画が終わったその日に作ったセトリ完全再現のプレイリスト以外、ずっと聴けないでいたけれど、今はもうそんなこともなくなっている。私の中で出来事の風化は早くて、それは私にとって必ずしも悪いことではない。

 

9月10月はいろんな人とおでかけをしていて(する予定もあって)、家族だったり、久々に会う友達だったり、サークルの先輩後輩同期だったり、デートだったりして、ハピハピしてるけれど、全てなにか終わる予兆な気がして同時に悲しい。寂しい。期間限定のしあわせならいらないんですけど。

でもこの期間で、私の好きな人が私を肯定してくれるなら、無理に私は私を肯定する必要がないなと思った。

 

そうだ、今日、自己分析イベントみたいなやつに行ってきたんだけれど、そこで合理的と言われたのは少し間違っている。納得感を求めているだけだ。納得出来ればなんでもよかった。納得出来ないことは嫌だった。それで1番の友人である姉と喧嘩したりした。なんだかよく分からない。姉は合理的で私は感情的だ。いつも。

話は戻るけれど、その自己分析イベントは見知らぬ人に、人生での天国(最高だったこと・嬉しかったこと)と地獄(最悪だったこと・辛かったこと)を話して、大事にしているものは何か考えよう、みたいな内容だった。私は人生での天国と地獄を話すだけですっきりしてしまって、なんか自己分析とかそういうあれじゃなかった。うける。カウンセラーか。

 

ブログってどうやって締めるんだっけ。

私の感情の行き場がなくなりませんようにと願って寝る。

 

 

本番

でっかいキャリーバッグを持って羽田空港に向かう。キャリーバッグが大きすぎるせいで、全ての荷物を入れても半分くらい余っていてスカスカだった。

友達と行くのは初めての海外旅行。向かう先はドイツだ。(私はどこでもいいからヨーロッパに行きたかった)

 

9月前半は2つやっているバイトのどちらにも一切入らないくらい過密スケジュールで、いわゆる"本番"というか、今まで準備してきたことが実現する期間になった。

 

サークルで最も大きなイベント(?)が終わり、私はなんとも表現できない気持ちになった。正直、始めから終わりまで実感がなく、気付いたら終わっていて少し取り残されている気がしないでもない。仕事をばりばりするのが得意だなと思った。はっきり言ってしまえば「成功してよかったね!」って思ってしまったのだった。それでも自分にとって良い日なのも間違いなかった。いろんなものが詰まった一日だった。人の中に踏み込んでいくのがひどく苦手で勝手に孤独を感じていた私が少し救われたりした。

 

最近お酒弱すぎてうける、迷惑かけてごめんな。顔は赤くならなくなったと言ったら、身体は強くなってメンタルは弱くなったんだね、と言われた。その通りだ。

お酒を飲まなくても本当はいつだって泣きたい。でも言いたいことたくさんあるのに、訳分からなくなってしまって何一つ伝えられていないような気がする。コミュニティを失う怖さは、人格を一つの捨てるような怖さだ。大切なものを自分で捨ててしまいがちで、そんなのやめたいけど、やっぱり私は不器用で持っていると持て余してしまう。いや勘違いしないでほしい。言いたいことはこれでもない。

 

文章を打っている間に空港に着いてしまった。

最初から忘れ物と遅刻をぶちかましてくる友達とドイツに行ってくるね、予想外の出来事も全てが楽しいに違いない。

 

棚ぼたの幸せ

月が変わるとブログを更新したくなるのは、新たな1ヶ月に何か期待をしているからだろうか。時の流れがあまりに早くて、カレンダーを見て戸惑う。

 

この1ヶ月半、期間限定の一人暮らしをしていた。後先を考えない系の一人暮らしだ。時間を最大限に使えている感じがして、とても楽しかった。でも今まで親が厳しいこととか家が遠いことを言い訳にしてきたから、それがなくなってしまって、私のダメなところを浮き彫りにされている気分だ。

1ヶ月半の間、いろんなことがあった。自分で選択して自分で暮らていくからなんとなく生きるということができなくて、それが私にとってかなり大きな経験になったように思う。嬉しいことも楽しいことも悲しいこともたくさんあった。でも感情はたいしてぶれない。全てなかったことになりそう。全ての出来事が私以外のどこかに残って、なかったことにされないことを祈るしかない。

 

何をしても満たされない感覚に、みんなはどうやって向き合っているのだろうか。こういうことを書いていると安直にメンヘラだと言われるが、まぁその自覚がないわけではないけども、SNSをやめたら所謂メンヘラではなくなるんだろうなとも思う。SNSに書きすぎなんだよな、わたし。でも独り言のように一方的な投稿は結構楽しいもんですよ。

何をしても満たされない感覚に満たされて、何もしたくなくて、でも何もしないこともしたくなくて、予定をただこなすだけの毎日はあまりに寂しい。さらには最近自分の力不足を感じまくってしまって、何をするにも腰が重い。私には出来ないし。何をしても何をしなくても責められているかのような重さ。ごめんな期待しないでくれや。頑張ることが正しいとされるこの世の中で、頑張ることが出来ない私に何があるっていうんだろうか。

 

 

全部中途半端なのに全部捨てられない私に棚ぼたみたいな幸よ来い